瞑想とは神になることである。
あるいは、
自分が神であることに気づくことである。



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ビデオ:瞑想とは(令和6年3月10日)





瞑想とは
心を穏やかにすることでもなく、
気持よくなることでもありません。

神になることです。
あるいは、
自分が神であることに気づくことです。

この世には不調和波動が蔓延して、
すなわち、悪魔が蔓延して、
その中でのあなたは何の力もない個人だと思い込まされているのです。
そして、
個人は運命に翻弄され続けています。
それは悪魔の仕業です。
そこから抜け出すことが瞑想です。


1,この世は地獄である。
 この世は地獄です。
あなたは地獄の中で苦しんでいます。
それは
あなた自身が
地獄を出現させているのです。
あなたが地獄の、不調和波動の、この世を出現させておいて、
あなたがそれに苦しめられているのです。
それは
あなたが思考にはまっているからです。
この世が地獄になっているのはすべてそんなあなたのせいです。


あなたは全力で、
あなたが個人的存在である、
という勘違いから抜け出さないといけない。
そうしないと、
あなたには延々と、
個人という地獄が繰り返される。
この世が不調和波動の世界になっているのは、
すべてあなたという個人が存在しているからである。
だから、あなたにとって悪魔は「個人のあなた」以外にいない。
あなたに起こっているすべての不具合、障害、不安、ぎくしゃく、
すべてあなたという個人が生み出しているのである。
それを解消するには、
あなたが個人から神へと抜け出さないといけない。

あなたは、生まれた時から、ずっと、
あなたは個人であると教えられてきた。
あなたは何年何月何日に生まれた、と思いこまされている。
(あなたの正体は生まれもしないし、死にもしないものである)
あなたはそう思い込まされているだけである。
それは事実ではない。

あなたはそれを拒否しないといけない。
そうしないと、あなたの無限地獄が続くだけである。

あなたが死んでも、
また、次の生が同じ勘違いをして生きている。
それが延々と続いてきて、


今、ここにあなたが存在している。

だから、
今、この生において
その勘違いから全力で抜け出さないといけない。
それだけが
あなたがこの生でやるべきことかもしれない。


だから、
瞑想とは片手間にやるものではなく、
あなたが命を賭してやるもの。
そうしないと、
それには到達できないかもしれないから。


「求めよ!さらば与えられる。」

人はなぜ真実を求めるのだろう。

それは苦しいからである。
苦しい、というのはこの世界が不調和波動で占められているから。

その苦しみが
あなたを真実の世界に誘導するのだ。

わたしも、
68年間、
この苦しみを何とかしようと、もがいて、とうとう、ここにたどりついた。
「求めよ。さらば与えられる。」
というのは真実であることに気がついた。
だれの指導もなく、
ただひたすら自分の中を追求することだ。
すると、
とうとう発見できるから。
これが瞑想の真髄である。



2.一点集中見る見る

2,一点集中見る見る。

あなたはこの三次元の世界に取りつかれている。
それが思考にはまっていることである。
それによって、
あなたは思考が自分だと勘違いして、自分が個人的存在だと勘違いしている。
あなたが苦しんでいるのはこれが原因である。
あなたの正体はそれではないんだ。
そんな思考の支配から全力で抜け出さないといけない。
思考はあなたではない。
空っぽがあなたである。
それに気づくには「一点集中見る見る」である。
一点はこの世の三次元から他次元への入り口である。
この世でいくら、探しても、あなたの答えは見つけられないんだ。
だから、
他次元に抜けないといけない。

この世からあの世へ。
地獄から天国へ。
それが一点集中見る見るである。
その一点は狭いが、
真剣に見つめることができる人間には間違いなくその先が在る。
その先には天国が広がっている。
そして、
その一点は、
あなたが見ようと思いさえすれば
いつでも、どこでも、存在する。








3,雲が思考だとすれば、青空が無限なる空っぽのわたし。

 

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「一点集中見る見る」によって思考が消えると、
あなたという個人的存在から抜け出して、
あなたは
「無限なる空っぽ」になっている。
(それが他次元、あるいはあの世、と称しているもの)
すると、
たとえ、
思考がやってきても、
それはわたしではない、と気づいている。
本当のわたしは「無限なる空っぽ」。


4、「無限なる空っぽ」が、本当のわたしであり、それが神である。

それ以外に神はいない。
それは
無限なるものであるから、
生死がない。
病気もない。
(生死も病気も三次元のもの)
それは、

この宇宙を司っているもの。
その存在に気づくだけで、この世のすべてが調和になる。

それに気づいただけで、あなたの問題のすべてが解消する。

それを会得するにはそれになるしかない。
頭で理解してもまったく無意味。
それどころかいよいよ混乱するのみ。
その思考の頭を「一点集中見る見る」で消すのである。
思考が消えると、
「無限なる空っぽの光」が存在することに気がつく。
雲が晴れると、青空が出現するのと同じ。

そして、それは、

その気になれば、誰でもなることができる。
それには、まず初めに、
それが在ると思うこと。
それだけが本当のわたしだと思うこと。

事実、それだけがあなたの中心にあるものだから。




5,あなたの内なる一点を発見しなさい。
発見した瞬間に、あなたは「神=無限なる空っぽの光」になっているから。

あなたの内なる一点を発見することである。
それはいつでも存在するから。
そして、
それは、あなたに発見されるのを無限の彼方から待っている。
ところが、
あなたは常に自分の外側ばかりを見ている。
それどころか、自分に内側があることにさえ気づいていない。
それが、神としての自分を忘れている原因である。
それが、あなたが個人として、存在している理由である。
それだけがあなたが苦しんでいる唯一の原因である。

それは本当のあなたではない。

それは、
あなたの価値観が自分の外側にばかり向いてしまっているから。
あなたが自分の外側を見て、外側に世界があると思った瞬間に(それがこの世界)、
あなたがこの苦しい世界を作り出しているのだ。

すべてはそんなあなたのせい。
それが、すべての失敗や混乱の元。

あなたの視線を自分の内側に向けることである。

すると、
あなたの内側に一点を発見できるから。
よく見るといい。
まず、空っぽが存在する。
その空っぽには中心の一点がある。
必ず一点が存在するから。

その一点こそが、
あなたが居るこの宇宙であり、そしてそれがあなたの自我=個人的存在である。
すなわち、
その一点を発見した瞬間に、
あなたは、
あなたがその中に住んでいると思っているこの宇宙から抜け出て外側から見ている。

すなわち、 あなたは「個人的存在」から抜け出ている。
だから、
その瞬間に、あなたは神になっている。

その証拠に、
あなたは、思考が消えて、見ているだけの存在になっている。
すなわち、
「個人としてのあなた」から抜け出て、この宇宙の外側から、この宇宙のすべてを見ている。
隅から隅まで。
原子の一つまであなたに見られている。
この宇宙の何一つとしてあなたに見られないものはない。
すなわち、この宇宙のすべてがあなたの中にある。
そして、
あなたがこの宇宙のすべてを見ることで、この宇宙のすべてを一つにして調和にしているのだ。

だから、
あなた以外に神はいないのだ。
そして、
この宇宙はあなたが見てくれるのをずっと待っていたのだ。


 

 

6,あなたの個人が消えるとあなたは神になっている。

あなたという個人は思考が作った幻想である。
あなたというこの世に出現した個人という中心の芯がこの世のすべてを不調和にしている。
すべての苦しみはこれが原因。
一点集中見る見る、で思考が消えると、

あなたは、個人という芯ではなく、芯を見ているものになる。
すると、
あなたは個人ではなく、全体があなたになる。
宇宙を超えた全体である。

それが「無限なる空っぽの光」。
これが神である。

すなわちあなたは神である。
それに気づくと、あなただけでなく、
あなたに関わるすべての人が幸せになる。

 

無限なる空っぽの光          内なる一点を見ている「無限なる空っぽの光」

 

 



7、『わたしがこの宇宙の中にいるのではなく、
                   この宇宙がわたしの中に在る』

 https://scontent.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/15055615_1809871869226040_618398316282077349_n.jpg?oh=5f5ec59e7986f215472ce9f6e7ee494d&oe=588EA8B3



それが事実であると気が付いたらあなたは神になっている。
「わたしは神である」と宣言したからと言って、神になれるわけではない。
それは妄想でしかない。

わたしの正体は
稲福薫という「個人的存在」ではなく、この宇宙を超えた存在である、
ということに気がつくことである。
それには自分の内側を見ることである。
すると、わたしの頭の周りには雲のようなものが漂っていることに気がつく。
それが意識であり、この宇宙である。
その中心には芯がある。
それが「個人的わたし」である。

それに気づいているものが、本当のわたし=神である(図の見ているもの=黄色部分)。それが事実である。
それに対して、「個人的わたし」というのは幻でしかない。

そうして、
「神的わたし」になると、
この世のすべてが何もしなくてもうまくいく。
この世のすべてはわたしの中にあるから。


うまく行かないとすれば、
「個人的わたし」に舞い戻ってしまっているだけ。

それに気づくと、
また「神的わたし」に戻る。



8、「無限と内なる一点」
内なる一点を発見することである。
内なる一点を発見した瞬間に、
あなたは無限なるものになっている(図)。



すなわち、
個人的わたしから無限なるものにジャンプしている。
内なる一点と無限は対になっているから(図)。



内なる一点は
この宇宙であり、「個人的わたし」である。
「無限なるわたし」はこの宇宙や「個人的わたし」を超えた存在。
「無限なるわたし」だけが実在するものであり、
一方、内なる一点は幻である。
(四次元と三次元の違い。三次元世界にいると、この世界が事実だと思うが、
四次元世界にいると三次元世界が幻に見える。)

だから、
内なる一点を見つめていると、
(それは個人のあなたが見つめているのではなく、
無限としてのあなたが見つめている。)
内なる一点は次第に薄くなってきて(図)、




しまいには消え去る。
(すなわち「個人的わたし」とこの宇宙が幻と
消え去る。)

そして
「無限なるわたし」だけが残る(図)。



これが絶対的存在。
これが神。
この状態でいるだけで、
この世のすべてがうまくいく。





9,一点集中見る見るで、両親に感謝感謝で、内なる一点を見る。
すると、内なる苦玉の一点が光の一点に早変わり。

苦玉は無限に気づかない自我である。すなわち、個人的存在である。




親は神であり、無限なるものである。
だから、親に感謝することで、無限につながる。
しかし、そこには思考が入ってはいけない。
一点集中見る見るで思考が消えた状態で親に感謝である。
そうして内なる一点を見ることである。

すると、
苦玉の一点は無限につながって光の一点になる。


9,

10:『サマーデイー(三昧)』

「個人的わたし」が無限につながると、
「個人的わたし」は消える。

すると、
わたしの中心から芯(苦玉)が消えている。
空っぽだけがわたしの中心にある。
空っぽには光が充満して無限の彼方に繋がっている。
無限の光。

思考が消えている。
わたしは、
ただ見ているだけのもの。

すると、
無条件の幸せ状態になっている。
ただ幸せ。
何の原因も理由もなく、ただ幸せ。
絶対無条件の幸せ。
体中に、その幸せが満ち満ちている。

これがサマーデイー(三昧)と言われているものだろう。

それだけが存在する。
過去も未来もなく、ただ今だけがある。

いったん、それに気づいてからは、
その気になれば、
いつでもそれになることができる。
ただわたしの体の中心にある空っぽのそのまた中心を見るだけ。
空っぽは見ようと思いさえすれば、
いつでもわたしの中心にあるから。

そして、
それが「本当のわたし」だから。
これまでは「個人的わたし」をわたしだと勘違いしていただけ。
ただ「本当のわたし」に戻りさえすればいいのだ。

そうして、
常にサマーデイー(三昧)の状態でいること。
すると、
この世のすべてもまた幸せになるはず。






(平成28年11月14日記載)

 

 

 

 

  





以下は以前の文章ですので、若干、もの足りない部分があります。


1、瞑想とは

瞑想とはあなたという存在がこの宇宙を超えているということに気づくことです。

それを「超宇宙的存在」と言っています。

あるいは「無限なるもの」、

あるいは「あの世」

あるいは他次元的存在

などと称しています。

それがあなたの本来の姿なのです。

ところが、あなたは生まれてこのかた、

「自分はどこそこのだれそれという個人である」ということを植えつけられてそれを信

じて疑いません。

それこそがあなたの混乱の唯一の原因であり、

また、この世界の混乱している唯一の原因でもある、というのです。

だから、

あなたの混乱と同時に、この世界の混乱をも根本的に解決するためには、

あなたが本当の自分に気づくことなのです。

それが瞑想です。

しかしながら、

瞑想は意識を宇宙の外側に向けるのでもありません。

(ここがわたしの最も苦労した部分でもあります。

意識はこの宇宙を超えることはできませんが、

「気づき」はこの宇宙を超えることができます。このことは後に説明します。)

われわれの意識はこの世界の中だけのもので、

その意識さえも超えている存在なので、

「超宇宙的存在」とでも言ったほうが正しいでしょう。

ところが、

われわれの常識はこの世の中のことで精一杯で、

(それどころか、ほとんどの人が自分のことで精一杯です。

ところが、その精一杯さが苦しみを生じているのです。

その苦しみを解消するためにこそ、

自分の本当の姿である超宇宙的存在に気づかないといけないのです。)


まず、この宇宙の外側にも何かがある、ということから始めることです。

自分の意識の外側にあるものに注目することです。

注目すると、そこに在ることに気がつきはじめます。



2、瞑想の基本は、姿勢ではありあません。方法でもありません。気づくことです。

よく、あぐらを組んだり、

手の位置をどうしよう、こうしようという、説明がありますが、それは間違っています。

さらに、呼吸方法などについても、そうです。

瞑想は方法を追求することではなく、

あなたの存在が根本的にがらりと変わることです。

さらに、

瞑想によって、体調をよくしようとしたり、

あるいは、気持ちよくなろうとする人もいます。

それらはすべて個人の追求することなので、

そんなものを追求すると、「超宇宙的存在」にジャンプすることできなくて、

結局は元の木阿弥の個人に戻ってしまいます。

わたしを含めて多くの方が失敗するのはここにあります。

すなわち、個人の体感を超えないといけません。

瞑想の本質は個人を抜け出て、この宇宙を抜け出て、「超宇宙的存在」になること、

と自覚することです。

あるいは、別の言葉で表現すると、

あなたという存在が「他次元」の存在になることです。

それは体の姿勢などではけっしてなく、あなたが神になるのと一緒なのです。

すなわち、

あなたの存在そのものが根っこからの変革を遂げることなのです。



3、そして、それには「気づき」が、必要です。

最も、大切なことが「気づき」なのです。

「気づき」があなたを「個人的存在」から「超宇宙的存在」へと引き上げてくれます。

ちょうど、人間がロケットに乗って、地上から宇宙に抜け出るように、

気づきによって、「超宇宙的存在」に引き上げられるのです。

というのも、

意識はこの宇宙に限られていますが、

「気づき」はこの宇宙を超えているからです。

飛行機では宇宙には抜け出ることはできないけど、

ロケットなら宇宙に抜け出ることができるように。

だから、常に、気づき続けることが必要です。

ところで、

気づきはここで終わりという地点は決してありません。

毎日毎日、気づ続けることによって、

「超宇宙的存在」に研きをかけ続けることが必要

です。

それは必要だからそうするというのではなく、

それが生き生きとした力、すなわち生気です。

毎日気づき続けていることが、生き生きとした人生になる、というのです。

だから、そうせざるを得ないのです。

(それとは反対の状態が「思考にはまっていること」です。思考にはまると、この世の不

調和波動に、どっぷりと浸かってしまいます。それがすべての苦しみの原因です。)



4、なぜ瞑想をするのか。

あなたは、

なぜ生まれてきたのでしょう。

なぜ、あなたはここにいるのでしょう。

なぜ、あなたは苦しまないといけないのでしょう。

これらの質問に根本的に答えるのが人生唯一の意味ではないでしょうか。

これらの質問に答えることなく人生を過ごすことは意味がないと、

あなたも心のどこかで感じているのではないでしょうか。

すなわち、

誰でも心の底に持っている人間としての根源的な疑問への回答を得るために、

瞑想がある、というのです。



5、ところで、何故、あなたは苦しんでいるのでしょう。

それはお金がないから、とか、

離婚をしたからとか、

夫婦問題を抱えているからとか、

会社でいじめにあっているからとか、

子供が心を病んでいるから、とか、

それは千差万別です。

しかしながら、その根源にある原因はただ一つです。

それは、

あなたの心が「この世」の価値観にとらわれているからです。

それがすべての原因です。

言葉を変えて言うなら、

「この世」を超えた世界の存在に気づけないのが原因です。

ちょうどそれは、

紙が表だけで存在しているのと勘違いしているのと同じです。

紙は表と裏が一つになって初めて存在します。

それは絶対的な事実です。

ところが、

紙が、自分は表だけで存在していると勘違いすると、それは妄想でしかないのです。

だから、紙は間違った妄想で苦しめられるのです。

われわれが「この世の問題」で苦しんでいるのはこれが原因です。



6、「あの世=超宇宙的存在」の存在(それを他次元世界とも言っている)に気づくことです。

それが瞑想の真髄です。

紙が表と裏で完全になるように、

人間も「この世」と「あの世=超宇宙的存在」が一つになってはじめて完全になります。

すると、すべての苦しみが一瞬にして完全に消えます。

それどころか、あなただけでなく、あなたに関係するすべての人が救われます。

なぜなら、意識はすべてが一つにつながっているからです。



7、一方、「この世」に捉われている状態が「思考にはまっている状態」です。

思考にはまっていることが苦しみを発生させます。

そして、その苦しみはこの世のすべての人に伝搬します。

なぜなら(何度も言いますが)意識はすべてつながっているからです。

苦しみが伝搬することを「不調和波動」と称しています。

例えば、ある人が来ると嫌な気持ちになります。

それはその人が不調和波動を発していて、あなたがそれを感じているからです。

人前に行くと緊張する。

それも不調和波動を感じているからです。

社会全体が不安になると、自分も不安になる。

その逆もまたそうです。

いじめ問題は、自分が誰かからもらった不調和波動を他人をいじめて、それをあげるこ

とで自分が楽になる行為です。それでは毒ガスのやり取りの繰り返しです。

それが、この世の人間関係の根底にあるものです。

引きこもりはこの世の不調和波動を感じてそれを拒否して引きこもっています。

すなわち、「この世」全体が毒ガス世界(=不調和波動の世界)です。

ところが、

健常とされる人達は、

この世の苦しみを感じながら

(たとえば、行きたくない会社に行く、会いたくない人に会う)

それを笑顔でゴマかせているだけなのです。

「この世」のすべての人が同じ問題を抱えています。

何でわたしだけ苦しむの?と思っている人もいるかもしれませんが、

それはあなたの思い込みにしかすぎません。

みんなあなたと同じように苦しいのにただ表顔では幸せを装っているだけなのです。

誰かが、その毒ガス世界(不調和波動)を消さないといけないのです。

自分のためにも、みんなのためにも。



8、不調和波動を消すこと、それが瞑想です。

それは「この世」から「あの世=超宇宙的存在」にジャンプすることにほかなりません。

例えば、先に例示したような紙の表と裏が通じることなのです。

(それを「ぽっかり穴」と称しています)

ところが、

普通の人間は、思考が心のすべてを占めています。

これをしないといけない、あれをしないといけない、などと考えます。

それがわたしだと勘違いしています。

そして、その中心には

思考が編み出したところの、

わたしはどこそこのだれそれであり、

この肉体を持ってそれぞれの名前を持った「個人」がいます。

それが「わたし」だと思っています。

それが自我です。

それがすべて勘違いだというのです。

本当のあなたは、

そんな幻想なる個人を超えて、この宇宙を超えた、

他次元の存在である、というのです。

そのことを事実として、「気づく」のが瞑想です。



9、それにはまず、「思考にはまった状態」からが抜け出すことです。

それには一点集中見る見るです。

思考にはまっている人間は目を見ると、左右に小刻みに揺れています。

それが思考にはまっている証拠です。

この世の毒ガス(不調和波動)に完全に支配された状態です。

目が泳いでいる、というのはこのことです。

それなのに、自分は正常だと思い込んでいます。

ところが、それでは、不調和波動に頭の先まで浸かっているのです。

しかしながら、

一方では、そんな人間は快楽を追い求めることでその苦しみから逃れようとします。

物欲、性欲、名誉欲、などのすべての欲望の追求がそれです。

これらの欲望によって自我を喜ばせることで苦しみを紛らわせようとします。

それが快楽です。薬物依存もこれが原因です。

しかしながら、これらのものを追求すればするほど苦しみます。

そしてさらに、それで終わりではありません。

一人がこのような自分自身の問題を根本的に解決できないことが

子や孫に不調和波動を伝搬させて、子や孫の心の病を引き起こします。

それをカルマと称しています。

しかしながら、

そんな人間でも、とうとう、人生のある時期になると、

もうこれらのごまかしではどうしようもないことに「気がつきます」。

そうして本当のものを追求し始めるのです。

それが瞑想の始まりです。


10、「求めよさらば与えられる」です。

これはわたしのこの20年の経験から事実であることがわかります。

たとえ、神であっても、求めると、必ず与えられるのです。

「そんなものが与えられるはずがない」というあなたの思い込みが問題なのです。

だから、ひたすら追求し、求め続けることです。

すると、必ず与えられますから。

わたしのこれまでの経過はこうです。

あることに気づくと、自分が一皮剥けました。

ところが、それで終わりではなく、また一皮が自分にあることに気がつきます。

それを見つめていると、気づきが起こって、また一皮剥けます。

それの繰り返しでとうとう「超宇宙的存在」に気づくことができました。

それでもまた一皮が見つかります。

一生が、それの繰り返しです。

これで終わりと思ったらアウトです。



11、一点集中見る見る。

「思考はまり」の状態から抜け出すには、「一点集中見る見る」です。

どこかの目の前の一点を集中してみることです。

その詳細について本ホームページの「一点光源を見る瞑想法」をご覧ください。

一点集中見る見るすると、強制的に思考が消えます。

それが空っぽの状態です。すなわち無です。

空っぽの状態の先に、真実のあなたの存在(超宇宙的存在)がある、というのです。

それを実感することが瞑想です。

だから、空っぽとか、無、というのは瞑想の入り口なのです。

映画が消えた白いスクリーンをじっと見つめていると、真実の存在が現れてきます。

だから、とりあえず、映画を消して白いスクリーンを見つめていよう。

そんな感じです。

さらに、

自分の苦しみをじっと一点集中見る見るすることもまた重要です。

自分の体の中に苦しい塊があります。

わたしはそれを苦玉(くだま)と称しています。

苦玉の芯をじっと見つめることです。

すると、苦玉の芯に光の一点を発見することができます。

それが「ぽっかり穴」です。

すなわち、苦しみは自分をジャンプさせてくれるものなのです。

だから、決して苦しみから逃げないことです。


12、思考が消えて空っぽになって自分の内側を見ると、「ぽっかり穴」に「気づく」ことが

できます。


「ぽっかり穴」が他次元=あの世の入り口です。

それは頭の真ん中に空洞のような感じがあります。

頭の上かもしれないし、胸の中心かもしれません。

とにかく自分の内側を見ることです。

それは見つけようと思いさえすれば必ず発見できます。

ブラックホールのように吸い込まれそうな穴です。

「ぽっかり穴」に気づいたら、それはあなたが他次元世界のの入り口に着いた証拠です。


13、「ぽっかり穴」の中をじっと見つめると。

そこには「無限なるもの」が存在します。

それは「空っぽ」と称されるものです。

それが本当のわたしです。それが超宇宙的存在です。それが「あの世」です。

不調和波動の世界=「この世」から「無限なるもの」を見ると、

それは穴のように見えます。それが「ぽっかり穴」です。

「ぽっかり穴」の中では、「無限なるもの」になります。

ところが、「ぽっかり穴」の中に入ろうとすると、

強い死の恐怖を感じて、元の「この世」に戻ってしまうことがよくあります。

これでは決して超宇宙的存在になることはできません。

そこは、自我=個人が最終的に死ぬ地点なのです。

あなたの自我=個人が死なない限り、

超宇宙的存在になることは決してできないのです。

だから、わたしは「そのまま進んでいって死になさい!」とアドバイスします。

それ以外にあなたが救われる道はないのですから。

それは誰もが経験しないといけない地点なのです。

そうして、あなたが「生きながら死ぬこと」ができたら、

あなたは「超宇宙的存在=無限なるもの」になっています。


14、無限なるもの

「無限なるもの」とはこの宇宙を超えた存在です。

そして、それはこの宇宙のすべてのものに浸透して、この宇宙のすべてを在らしめてい

るものです。すべてに調和をもたらすものです。

それなくしてはすべてが幻です。

この宇宙で唯一在るものです。

それは実際にそれになることで体験するしかわからないものです。

「無限なるもの」はこの世を超えているので、「この世」の文章では描写できないもので

す。

だから、それぞれが自分自身で「それ」になることで体験するしかないのです。

それが「超宇宙的存在」です。

それが本当のわたしです。

ところで、われわれの常識では、以下の通りです。

この世界で最も大きいのが宇宙であり、

この宇宙中に地球があり、

その地球に住んでいるのが、「わたし」である、

というのがわれわれが幼少時より教え込まれてきた常識です。

それが間違いである、というのです。

それが逆転してしまいます。

わたしが「超宇宙的存在」であることに気づくと、

わたしの中にこの宇宙があることに気がつきます。

すなわち、この宇宙のすべてがわたしの中にあるのです。

すると、

わたしこそがこの宇宙のすべてを調和にする存在であることに気がつきます。


15、まとめ

わたしが個人であるという間違った幻想が不調和波動を発生し、

この宇宙全体を汚して、混乱させてしまいます。

逆に、

わたしが、本当の姿すなわち超宇宙的存在であることに気づくだけで、

宇宙全体に調和をもたらします。

それはちょうど、

泥棒が泥棒をやめただけで、

世界のために何かをしようとしなくてもそれだけで世界が救われる、のと同じです。

わたしが超宇宙的存在であることに気づくと、もはや何をすることもありません。

もし、何かをしようとするならまだ個人のままでいる証拠です。


16:両親の守り神としての光療法

 わたしは「超宇宙的存在=無限なるもの」になるための方法として、

「両親の守り神としての光療法」を行っています。

詳細はその項目をご覧ください。





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以下の文章は昔の文章です。




瞑想とは

意識が本来の姿である全体意識になることです。
人間の苦しみは肉体も精神もすべて一つ、
意識が自我にはまり、その結果として、
毒ガス=不調和波動を発し、
それによって自分も自分に関係する者(特に家族)
が苦しめられています。

意識が自我から
本来の全体意識に戻ることで
一瞬にして、
すべての苦しみから解放されます。
そして、無条件の幸せがおとずれてきます。

全体意識とは
意識は本来全体で一つのものです。
この宇宙全体で一つなのです。

それどころか、この宇宙を超えたものです。
そのことに気づくのが瞑想の真髄です。

意識が全体意識(超宇宙的意識)になった瞬間に
すべてのものとの境界がない意識の状態になります。
その瞬間に宇宙全体と自分の意識が一つになって調和の状態になります。
これが「無」といわれるものであり、
究極の安心、平和の状態です。

それが「法悦」と言われる状態です。
それは
すべてが調和している状態であり、
すべてのものがおたがいに調和で共鳴しています。
それを調和波動と称しています。
究極の幸せ状態です。

ところが、
この世界は陰陽で成り立っているのもまた事実です。
調和の状態であれば、
対極に不調和な状態があります。
神があれば悪魔があるように、
調和波動があれば不調和波動があります。
光があれば闇があるように。
不調和な状態も全宇宙に影響します。
この宇宙は光(調和波動)と闇(不調和波動)のせめぎあい、
と言っていいでしょう。

人間が思考にはまると、
不調和波動を発生させ、
(あるいは不調和波動に取り付かれると思考にはまります)

そんな一人の意識が全世界、全宇宙に影響します。
(わたしはそう感じています)
これが現代の世界が混乱している原因であるというのです。

そして、
人間一人が調和波動(光)の状態でいることが
意識はすべてつながっていますから、
全宇宙を調和に導くというわけです。
それが瞑想の真髄だと思います。

瞑想はある一定時間だけを行えばいいのではありません。
瞑想を一日一時間だけするという習慣にしている方も
少なくありません。
ところが、
人間は一日中、24時間、全体意識でなければいけません。
それは究極の幸せ状態です。
例えば、
自分は一日何時間幸せでいることが必要ですか
とは問わないはずです。
それに対しては
24時間幸せ状態でいなさい、と答えるはずです。
それが周囲も、全世界も
幸せになることだから、
という答えになります。

すなわち、
瞑想とはある一定時間だけ瞑想するのではありません。
24時間
全体意識の状態でいることです。
そうでなければ
瞑想以外の時間は
不調和波動にまみれているということなのです。
それではすべてにおいてうまくいかないのです。

瞑想の場所、姿勢
瞑想においては、
意識の状態がどうであるかが問題であり、
基本的に言うと、場所や姿勢はどうでもいいのです。
どこにいても、どんな姿勢でも
瞑想状態、すなわち全体意識の状態でいることが必要なのです。

(ただし、後に言うように、思考にはまると、
ごそごそ指や目が無意識にうごきます。
それに気づいて意識して動きぴたっと静止させることが
思考が消える意識に誘導できます。)


例えば上図のように
橙色の部分は思考がぐるぐる動いています。
これでは核心をつけません。
(これが思考にはまった意識の状態です)
中心に矢を射るようにするのがコツです。
これが一点集中見る見るです。

周囲の影響
瞑想しようとしても周囲が不調和波動に満ちていると
(例えば隣でテレビを見ている、わいわいがやがやおしゃべりをしている、など)
それに影響されて
うまく瞑想状態に入ることができません。
じつは、
そんな状態でも瞑想状態に入れることが究極の姿なのですが
(すなわちそれが周囲の不調和波動を調和波動にすることです)、
最初のうちはどうしてそこに引っ張られてしまいます。
だから、
誰もいないひとりぽっちの状態で瞑想することがいいです。
特に自然は調和波動に満ちているので、
自然を前にして瞑想するのがいいでしょう(海や山など)。

集団で瞑想している人達もいますが、
集団は本当の瞑想ができている人が一人でもいないと、
集団全体が不調和波動にまみれて
それが瞑想と勘違いすることがよくあります。

だから、
基本的には、
ひとりぽっちで瞑想をするのがベストです。
わたしは深夜(3時から4時ごろ)の自宅の居間でやっています。
(以前は、山の中に一人で入って瞑想していました。
とても素晴らしいものでした。
あの経験は今でも生かされています。)

まず、一点集中見る見るです。
それは「思考にはまった意識」から
「思考が消えた意識」に誘導することです。
「一点集中見る見る」で思考が消えた意識の状態になることです。
それがまず初めにできなければ
その先には進めません。
何よりも重要なことです。
わたしは瞑想する場所に2、3m先に一点光源を常に灯しています。
(テレビのスイッチライトなど)
その一点光源を見ることです。
(詳細は「一点光源を見る」の項目を参照ください。)

先にも述べたように、
思考にはまった意識は目が左右に小刻みに揺れています。
思考のぐるぐるまわりです。
あなたもこのように自分の思考がぐるぐるまわりしているのを自覚するはずです。

どこかの一点を集中して「見る見る」をすると
強制的に思考が消えた意識の状態になります。
これがすべてです。
これがすべての始まりです。
これができないと何も始まりません。
瞑想のスタートであり、終点でもあります。

ところが、
一点集中見る見るをすると
最初は苦しいのが襲ってくることがあります。
それは自分にこれまで付いていた不調和波動=苦玉に気づいている状態です。

まず、
思考にはまって不調和波動にまみれた
現在の意識の状態に気づくことです。
すなわち、
「自分が苦しい」と気づくことです。
それが瞑想のすべてのスタートです。

多くのひとは、
不調和波動(=苦しみ)にまみれながらも、それをごまかせています。
出世欲、名誉欲、金銭欲、物欲。薬物、ギャンブルなど。
それでごまかせるうちはまだいいのですが、
人生のある時点から、
もうこんなものではごまかせないと気づくようになります。
その時点から人は瞑想を追及するようになります。
(それが今のあなたかもしれません。)

すなわち、
思考にはまっていると
自分に苦しいもの(不調和波動)が取り付いていることさえ気づきません。
そのため、
知らず知らずのうちに、
自分の家族や職場に不調和波動をまきちらして、
この世界の混乱の原因になっていることにも気づきません。

一点集中見る見るをすると「自分が苦しい」のを自覚します。
すなわち思考が消えると
自分の現在の状態に気づきます。
それが瞑想の根底にあるものです。
瞑想の本質とは
「自分に気づくこと」にほからならないのです。
そして、「自分の苦しみを見る」ことが瞑想の真髄なのです。

よく、
瞑想したら苦しくなったからあわてて中止した、
などという人がいますが、
それは
自分に取り付いている不調和波動に気づいたのです。
(多くの人はそれを嫌がって逃げます。それでは元の木阿弥です)
すなわち、
自分に着いている苦しみ(=不調和波動)を感じ
それにまともに向き合うことが瞑想の本質なのです。

自分の苦しみ=不調和波動に気づいた瞬間にすでに
瞑想は始まっているのです。
すなわち、
それこそが全体意識のはじまりです。
自分の苦玉に気づいた瞬間に
意識は全体意識になっています。

一点集中見る見るすると自分や周囲に蔓延している「不調和波動」がわかります。
われわれがあたりまえに生活している
社会的付き合い、家族の中の人間関係、
すべてが不調和波動関係です。
家族の中の関係がこの社会全体の関係につながっています。
比較、ねたみ、非難、攻撃、さげすみ、
これらすべては
相手と自分の間に壁を作ることでできます。
その中心にあるのが自我です。

すなわち、
この世界に「自我」が現われた瞬間に
全宇宙が苦玉=不調和波動にまみれてしまいます。
思考にはまっていると
そのような世界にまみれていることにも気づけません。

「一点集中見る見る」をすると
「思考はまり」から抜け出たその瞬間に
自分の不調和波動に気づきます。

ちょうどそれが毒ガスがこの世界に蔓延して、
自分の体も毒ガスだらけ、な感じです。

その毒ガス=苦しみを見ることです。
毒ガス=不調和波動の中心を見ることです。
毒ガス(=不調和波動)には必ず中心があります。
それが苦玉です。
苦玉をじっと見つめることです。
逃げないで。
それが瞑想の本質です。
すると、次第に
毒ガスが晴れてきます。


苦玉の中心を見る。
苦玉の中心をじっと見つめることです。
これがなかなか大変なことです。
思考にはまった人間は「一点集中見る見る」ができないのです。
思考にはまるとまわりをぐるぐるするだけで、
中心を見ることができません。


それは意識が思考にはまってぶれているのです。
意識をぴたっと一点集中見る見るするためには、
意識を固定する必要があります。
そのために
体を固定する必要があります。


意識を固定する感じは上図のような決まった
感じです。
わたしは両手をつかってこの感じにします。



微妙に手をうごかしまがら
ぴたっと決まった感じを覚えることです。

ぴたっと決まるためには
目は一点に集中することが必要です。
一点光源の中心の黒点の
さらに中心を見ることです。


意識が思考でぶれたときには、
体のあちこちが微妙に動いています。
たとえば、爪ほじほじ、指ごそごそ、です。
このすべての動きをぴたっと止める必要があります。
それには一点集中見る見るです。
すなわり、
一点光源の中心の中心のさらに中心を見ることです。
すると
光玉があらわれてきます。
これがわたしが苦玉に穴が開いている
と表現するものです。



これがすべてです。
意識の状態は
これが「ぽっかり穴」です。
意識全体をながめていると、
どこかにぽっかりと
抜けたような穴がわかるはずです。
意識がすべて渦巻状態に
うごめいていますが、
その意識が
流れ込むような感じの場所です。
その中心が
「ぽっかり穴」です。



この世界全体の不調和波動が
ぽっかり穴に吸い込まれていきます。
そして、
すべてがうまくいくようになります。
これが瞑想です。
「ぽっかり穴」が開くと、
苦しいのが解消されて、
スースーすっきりした感じがあらわれてきます。
今までの詰まった感じからぬけだして、
風通しが良くなった感じ。
無限の彼方につながった感じ。

瞑想においては「ぽっかり穴」に気づくことが最も重要なことに気づきました。
「ぽっかり穴」は意識におけるブラックホールです。
ブラックホールはこの世界の背側にある
すべて事象の地平といわれているものです。
紙の表がこの世界なら、
裏側への通路が「ぽっかり穴」です。
紙は決して表だけでは存在しません。
この世界に
「ぽっかり穴」に気づかないかぎり、
わたしたちの意識は「かたちんば」の状態です。
それがすべての苦しみの原因です。
ブラックホール=ぽっかり穴と言えるでしょう。
ブラックホールは
この世界の原理とされるアイシンシュタインの相対性理論から
必然的にみちびきだされたものです。
物があるならその裏側にはそれを吸い込んで無限へと導く
ブラックホールがないと、
物が物として成り立たないのです。

白鳥座X-1は巨大な星とブラックホールが連星になっているそうです(下図)。
黄色いのが巨大な恒星で、
青色の真中がブラックホールです。
ブラックホールから車軸状に
X線が放射されています。
すべての真理がこの絵にまとめられているように思えます。



苦玉と「ぽっかり穴」を上図に当てはめると
以下の図になります。



意識においてもそうです。
思考は現世です。思考は物質です。
思考だけでは、「かたちんば」なのです。
思考にはまることが苦しみです。
「かたちんば」であることが苦しみです。
意識におけるブラックホールを見つけることです。
それが「ぽっかり穴」です。

わたしは以前は光(調和波動)を追いかけていましたが、
それでは不十分です。
というのも、光(調和波動)はこの世のものだからです。
だから、いつのまにか、
光(調和波動)が消え去ってしまい、
うろたえていました。

「ぽっかり穴」を発見することです。
その瞬間に光(調和波動)が訪れます。
「ぽっかり穴」をみさえすれば、
いつでもどこでも光(調和波動)が目の前に出現します。

「ぽっかり穴」を発見しさえすれば、
すべての物事が
調和し、うまくいくようになります。

それは、
よごれバスタブの水を抜くのとにています。
バスタブの底の栓がしまったままでは、
水は鬱滞したままです。


ところが栓を抜いた瞬間に
風呂桶にはいっているすべての水が流出口に向けて流れ始めます。
この瞬間に不調和波動が調和波動になっています。
淀んでいた水に流れが生じること、それが調和です。



瞑想によって一人が「ぽっかり穴」に気づいた
瞬間に、
すべてのものが「ぽっかり穴」につながって
流れがおこります。
それが光=調和波動です。
「ぽっかり穴」はどのようにして見つけるのか。
それが瞑想の真髄です。
一点集中見る見るして、
自分の中や外を見ることです。
苦しいのがあれば、
その中心が苦玉です。
苦玉の中心の中心のそのまた中心を
追いかけていくと、
スポッと抜けます。
それが「ぽっかり穴」です。
あるいは、
苦玉の周囲には、必ず
抜けた感じのところがあります。
苦玉が実であれば、虚です。
虚になっているところ中心が
「ぽっかり穴」です。
思考にはまっているときには、
自分の中心に苦玉があって、
「ぽっかり穴」があって自分の外側にあるような気がします。
その「ぽっか穴」を見つめていると、
自分の中心に寄ってきます。
わんわんとした極楽耳鳴りが超えます。
それは光=調和波動の証拠です。
その中心をさがしていくと、
「ぽっかり穴」が見つかります。
いつでもどこでも「ぽっかり穴」を見つけていること。
それが瞑想の真髄です。

今朝の瞑想
朝起きると苦しかった。
わたし全体、家全体、この世界全体にうっとうしいものがはびこっている。

瞑想をする。
毒ガス=不調和波動まみれの中で。

どこかに明珠を捜す。
砂漠の中でオアシスを探すようなもの。
必ずどこかに存在しているはず。
そのうち、
頭の左上に光の中心(明珠)を発見した。
明珠の中心に「ぽっかり穴」がある。
その中心の「ぽっかり穴」を見る。
それだけで、
全体が明るくなってくる。

「ぽっかり穴」を見つめていると、
自分の体の中心に「ぽっかり穴」が出現してきて、
左上の明珠の「ぽっかり穴」とつながった感じ。

自分の中心に「ぽっかり穴」がある。
ここで宇宙全体をわすれてはいけない。
睡眠中に夢をみて
「わたし」モードにはまってしまったから
起きた時に不調和波動蔓延してしまっていたのだ。
常に
宇宙全体を見ていよう。

まだ、完全ではなさそう。
背中に苦玉がののしかかっているのがわかる。
それを解消しよう。
背中の苦玉の中心を見る。
中心に焦点を当てるのはむずかしい。
上の歌舞伎絵や手の感じできめる。
胸の中心の「ぽっかり穴」もある。
そのうち、
苦玉にスースーした風穴があいてきて
苦玉が解消されてくる。
これで今のところほぼ完璧だろう。

宇宙全体と一つになった感じ。
これを忘れてはいけない。

見るものはみられるものである。(平成25年12月9日追記)
わたしは苦玉を見ています。
「見ること」には「わたし」という苦玉の源があります。
苦玉が苦玉を見ている、という、変な関係になります。
それが苦玉を解消できない原因だとわかりました。

「わたし」が見られていることで
全体意識になります。
すなわち、苦玉を見ている。
苦玉を見ている「わたし」が見られている。
そのとき、
全体意識になって苦玉が解消されます。

 


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